あなたが してほしくないことをほかの人にしないようにしましょう。
長い間、多くの国の多くの人びとの間には、一般に「黄金律(おうごんりつ)」 と呼ばれるものがあり、それにはさまざまな翻訳(ほんやく)版がありました。1
上記の教訓はそのうちのひとつであり、害のある行為に関するものです。
ほかの人を一切傷つけることなく生きていけるのは聖者だけです。それとは反対に、犯罪者だけが、自分の周りの人びとを平気で傷つけます。
「罪悪感(ざいあくかん)」、「恥(はじ)」、「やましさ」 といった感情はすべて、現実的で嫌なものでしょうが、そうした感情とはまったく別に、ほかの人に与えた害が自分自身に跳ね返ってくるということもまた、偶然ながら真実です。
害のある行為すべてが、元通りにできるものであるとは限りません。 無視したり、忘れることのできないような行為を、ほかの人に対しておかしてしまうことがあります。殺人はそのような行為です。人は、この本にある教訓にひどく違反することが、どのように取り返しのつかない害をほかの人に与えることになるのかがわかるでしょう。
ほかの人の人生を台無しにすると、自分自身の人生をも破壊しかねません。社会はそのように作用します。刑務所や精神病院には、自分の仲間を傷つけた人たちが詰め込まれています。しかし、それ以外の罰(ばつ)も存在します。ほかの人に有害な行為をおかせば、捕まっても捕まっていなくても、特にそれが 秘密にされている場合は、ほかの人や自分に対する自分の態度の大きな変化に苦しむことがあります。これらはどれも悲惨(ひさん)なものです。人生でのしあわせや喜びは消えていってしまいます。
この本の「黄金律」は、試金石(しきんせき)としても役立ちます。だれかにこれを適用させるようにすれば、その人は何が人に害を与える行為なのかについて、実感をもって理解することができます。それは人に、何が「害を与えること」なのかを教えてくれます。「悪い行い」に関する哲学的(てつがくてき)な疑問、何が悪なのかといった議論に対する答えが、すぐに実感を伴って返ってきます。それは自分の身に起こってほしくないことですか?そうですよね?もしそうなら、それは人に害を与える行為に違いありません。そして、社会の視点から、それは間違った行為なのです。それは社会的な意識を目覚めさせます。そして、それは自分が何をすべきで、何をすべきではないかを人に考えさせます。
ある人が、害のある行為を行うことに対して何の抵抗も感じないとき、 その人の生存(せいぞん)能力はどん底にまで落ちていきます。
あなたが人びとにこれを適用するように説得できれば、その人たちに教訓を与えたことになり、それにより彼らは自分の人生を評価できるようになるでしょう。そしてある人たちにとっては、再び人類の仲間に加わるための扉を開いたことになるのです。
しあわせへの道は、
害のある行為を自制できない人に対しては
閉ざされています。
- 1. 「黄金律」: これはキリスト教徒によってキリスト教の教えと見なされ、新約や旧約聖書の中にも見られるが、ほかの多くの民族や集団もそれについて語っている。また、孔子の『論語』(紀元前5世紀および6世紀)にも述べられているが、孔子自身、さらに古い文献からそれを引用している。黄金律は「原始的な」部族にも見られる。また、プラトン、アリストテレス、イソクラテス、セネカによる古代の作品の中でも、何らかの形で見出される。何千年もの間、それは倫理的な行いの基準として人類によって守られてきた。しかし、昔の言い回しはあまりにも抽象的で、守りにくいと考えられたため、この本における黄金律は、新しい言い回しで表現されている。これならば、守ることが可能である。